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【12月8日に寄せて その2】中原中也「サーカス」(昭和九年) ー茶色い戦争ありました。。。 [On December 8th—Pearl Harbor Day] Nakahara Chūya’s Circus (1934): “There Was a Brown War…”

  「ゆあーん、ゆよーん」  天才詩人の残した不朽のオノマトペである。しかし、その何とも童話チックな響きとは裏腹に、その詩「サーカス」は、「戦争」というものの本質−−冷酷さ、嘘くささ、滑稽さ等々−−が、小学生でも分かる言葉で綴られている。「サーカス」は、それに踊らされている大衆なのか、当局なのか。。。この詩を収めた詩集『山羊の歌』は昭和九年が発刊年。青空文庫によると、12月10日というから、ほぼ91年前の冬だ。今の世界はどうなのか。暗い気持ちと向き合いつつ動画を作った。 “Yuaaan, yuyooon.” This is the immortal onomatopoeia left to us by a genius poet. For all its fairy-tale charm, the poem Circus in which it appears speaks of the essence of war—its cold cruelty, its falseness, its absurdity—in words that even a child could understand. Is Circus about the masses being made to dance, or about the authorities who pull the strings…? The collection that contains this poem, Goat Songs, was published in 1934. According to Aozora Bunko, the date was December 10th—so it was the winter almost ninety-one years ago. And what about the world now? I made this video while facing that darkness within myself.

「対話」と「共話」 NHKーR2 カルチャーラジオ「日曜カルチャー」(人間を考えるー古典に学ぶ 1 能『定家』 

一昨日、12月1日(日)
NHKーR2 カルチャーラジオ「日曜カルチャー」
早稲田大学准教授のドミニク・チェン氏と
能楽師・安田登氏との対談。
日本と海外の、言語によるコミュニケーションの違いを、
能「定家」から語っていて
実に興味深かった(嗚呼、私の貧しき語彙力!)。
その番組内容を略述する。
なお、
対談で取り上げられている『定家』の
クライマックスは第二弾で記す。

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なぜ、『定家』か。〜「共話」について

安田 まず、なぜ藤原定家なのかと言うと、「能」をやってますので、能との関連が非常に大きい名曲、その名も「定家」という、式子内親王が主人公の能がありまして、随分前に「共話」という言葉を。。。

ドミニク そうなんですよね。私、実はご存知ない方もいらっしゃると思うんですけど、安田さんの能の何て言っていいんですか、「弟子」。おこがましいですがーー

安田 今回の四人のうち、内田さんを除くと、全部僕が謡(うたい)を教えているんです。

ドミニク 謡をもうかれこれ2年ぐらいですよね。

安田 そうですよね。だから申し訳ないですけど、具体的に何をするかと言わずに何月何日にここに来て、とお願いしてると、来ざるを得ないんですよ。

ドミニク そうですね、師匠(笑)。

安田 ははあ。

ドミニク で、その中で、「定家」という能の作品があって、基本的に旅の僧と式子内親王の霊が交流をして、掛け合いで会話がどんどんクライマックスに至って盛り上がって、最後に式子内親王の霊が成仏する、とーー。

安田 成仏できないんですね。この能に関してだけは。

ドミニク あっ、してないんですか。

安田 もう一回、戻されちゃうんですよ。

ドミニク おっと。すみません、不勉強で。

 ただ、そのクライマックスで話があって、直後に地謡の人たちがその風景の描写を始めるっていうシーンがすごく不思議で、しかも、そのフレーズを一緒につくりあげるですね。旅の僧が何か言うと、式子内親王がまったくそのフレーズを引き取って返すっていう、その構造がすごく面白いですねって話をしていたら、実はそれは「共話」ーー「共に話す」という構造なんだということを教えていただきました。
 
 で、その後もそのことがすごく気になっていて、私はコミュニケーションの研究をしてますので、普通は「対話」なんですね。「ダイアログ」ってやつですね。Aと B というのが普通に別々の個人としている、と。今で言ったら、私と安田さんとが、今はダイアログなので、順番に話すってのが基本的ルール、当たり前ですよね。

 なんですが、どうやら日本の古典芸能であったり、日本の日常的会話の中では、「対話」じゃなくて「共話」ってものがやたら多い。他の言語と比べて多い。
 それはどういうことかって言うと、途中で何かフレーズを放り投げてもーー。

安田 そう。こんなふうに返す、というーー。言葉を作るんですね。

ドミニク これ、日常会話のなかで、皆さん普段やられてると思うんですよ。「きょうさぁ」「う〜ん、だるいよねぇ」とか、そんなことも「共話」とと呼ばれていて、言語学の中では実は日本語の特徴のひとつだと言われているんですね。

安田 これ、実は他のやつにあるかどうかをシェイクスピアで探してみたんですよ。一つもない。

ドミニク 英語で「共話」ってなかなか難しいですよね。

 (中略)

ドミニク 英語圏だと、相手に甘えてる、と見なされてしまうので忌避される傾向があるんですが、ミュージカルでも同時に混声するということはありますけど、ただ日本だと、その逆に、アメリカとかから見たら甘えと言われるような構造の話法を使えないと、逆に「こいつは日本語が下手なんだ」と、相手に相槌を打たせて自分も相槌を打つ、という、まさに「小鍛冶」という曲もありますけど、トンカントンカン打つ。そうやって作る。

 そうすると何が面白いかと言うと、個人という捉え方が「共話」を使う人々と、「対話」を使う人々で結構違うということが、心理学の研究でも解き明かされているんですね。だから、海外・アメリカと日本と比較しやすいんですけど、アメリカだと、安田さんと僕っていうのは壁があるんですね。

 この人とこの人は違うというものとして会話が繰り広げられるんですけど、「共話」と「対話」を交えつつやっていくと、途中でどっちが何を言ったかお互い分かんなくなるって言う、まさに「定家」という作品の中で、式子内親王と旅の僧が交わすような事っていうのが起こる。そうすると、お互いの人格が移り合うんですね。僕の中に安田さんがいて、安田さん中に僕もいるっていう、この間(あわい)の空間に僕と安田さんの統合人格みたいなものがその瞬間現れているっていうーーこれが非常にコミュニケーションの本質考える上で、現代のいわゆるコミュニケーション論というのは西洋の考え方が支配的なので、あまりないので。


二人が風景に 「もののあわれ」とはーー


安田 今日は多分、そこまで読めないんで、一応書いて来ましたので後で読んでおいていただきたいんですが、二人の会話(旅僧と式子内親王)が盛り上がると、能では「地謡」という歌に引き継がれるんですが、「定家」の場合は途中からそれは完全に地謡は風景を謡い出すんですよ。これは「定家」だけじゃなくて色んな演目で風景を謡いだしちゃうんですね。景色ですね。

 二人の会話だったはずなのが、景色になってしまう。これって、イメージすると、ドミニクさんと僕の最初は表層の言葉で話してますよね。で、だんだん深層になった時に、2人の間の境界がなくなる。で、更にそれが失くなった時に、それは風景に溶け込んでいってしまう。

 あとで、是非「朧月夜」っていう歌を思い出して頂きたいんですけども、あの歌の中には一番二番通じて感情表現がひとつもないんです。なのに、僕たちはあそこになにか感情を感じるんですよ。

 本居宣長が、「もののあはれ」というのは至る所にある、と。「あはれ」というのは、「あ、はれ」ですから、「あぁ」って溜め息ですね。それが至る所にある。それは感情の緒(いとぐち)は至る所にある。「情緒」って言いますでしょう。それは景色の中に至る所にある。そのようなことを教えてくれる「定家」という、好きな能の一つなので、そういう意味で藤原定家を扱いたいーー。


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