さて、昨日は「三つの災難」でいささかパニクってしまって、中断していた「短歌講座」を続けたい。東直子女史の歌にちょっと退屈していたのだが、ここに来て「わっ!」と思わす変化球に瞠目した。不条理ファンの小生にヒットした。
また、後半は穂村先生の名言も飛び出した。そうなんだな。ハッピーエンドとか励ましとかはスマップだけで充分だ。正直、夢を見るには齢をとりすぎた。そんな老いらくに、短歌・俳句は杖である。恋人である。
では、無駄口はこの辺りでーー。
(松田聖子『続・赤いスイトピー』が流れる)
司会 松田聖子さんの歌で『続・赤いスイートピー』をお聞きいただきました。東さんはこの歌のどこがお好きなんですか。
東 赤いスイトピーは幸せなカップルの一場面で終わっていて、その後があって、聞いていただいたとおり別れちゃうんですけど、彼の方が結婚して、自分は一人で頑張ってるみたいなところで、恋愛が成就しても人生は続くっていうところがあって、別れて切ないけど、私の人生は続くんだっていう、後悔しながらも一歩踏み出そうとしている感じがあって、松田聖子さんの歌好きなんです。生き方としても、お子さんが生まれても、また歌手としてずっと仕事を続けましたよね。79年に引退された山口百恵さんは結婚と同時に仕事辞められましたけど、聖子ちゃんは結婚しても出産してもアイドルの聖子ちゃんのままでずっと走ってきて、そういう女性の新しい生き方の一つを象徴してるとこもあって、松本隆さんってそういう意味でもすごいなと思うんですよね。一緒の物語に終わらせずに、このアルバム全体がそういうテーマを感じるんですけど。
司会 ちょうど昭和63年リリースのアルバムなんですね、『シトロン』という作品なんですが。
東 そうですね。昭和の終わりから平成に変わる時代の節目だったのかなと思って。
司会 穂村さんはお聞きになっていかがでした。
穂村 ねっ。別れたんですね。やっぱり別れたほうが作品世界としてはいいんでしょうね。その後、順調にいってますって歌だと情感がいまいち盛り上がらない。幸せになったら、作品はもう要らないのかも知れないですね。
東 幸せな作品もあっていいとは思いますけど、なんか、別れるほうが私も魅かれますね。
穂村 東さん、そんな短歌ばっかりですからねぇ。
東 悲しいとか切ないとか、そういうものに魅かれるところがあるんですよね。
司会 では、ここでまたお互いの歌のご紹介を。穂村さんから東さんの歌をお願いします。
穂村 『続・赤いスイトピー』と別れた人を思う繋がりで、一つご紹介しますね。
そうですかきれいでした私は小鳥を売って暮らしています
穂村 不思議な後味の歌ですけどね。何が綺麗でしたかって言ってるのか、この短歌だけではわからないんだけど、この主人公は小鳥を売って静かに暮らしている。これは郷ひろみさんがこう言っていたと。
司会 松田聖子さんが結婚したという時ですよね。
東 そうですね。二人は昔恋人同士だったんですけど、聖子さんが先に結婚して、郷ひろみさんの所にインタビュアーが行って「聖子ちゃん、綺麗でしたよ」と言って、ちょっと言葉に詰まった郷ひろみが「そうですか、綺麗でしたか」って呟いたのをテレビで見て、そう言うしかないよねと思って、ちょっと同情もあって。
穂村 ちょっと魂が抜けたみたいな感じですよね。そこが良くて、実際に郷ひろみさんが小鳥を売って暮らしてるわけじゃないんだけど、この付け方が東さんの才能って言うか、よくこんなふうにつけるなっていう、ちょっと浮世離れしてしまったんだろうね。失恋があまりにも重くて、それで見ることの叶わぬ花嫁姿を魂抜けた感じで思いながら、「私はここで静かに小鳥を売って暮らしています」って言う東さん好みのシチュエーションかな。
司会 では、今度は東さんから穂村さんの歌をご紹介ください。
東
まだ好き?と不意にたずねる滑り台に積もった雪の色を見つめて
やっぱりこれも、まだ好き?って突然言っているこのセリフが好きで、たったの四文字のセリフですけど、なんか悲しさがあるんですよね。まだ好きかってわざわざたずねるってことは、それを確認せずにはいられないような、ちょっと関係が冷えてきたような、このまま好きだった気持ちが少し冷めてきたのかなって恐れがあるような気持ちが、そういう言葉を言わせたんじゃないかと思うんですけども、その時に見ていたものが滑り台に積もった雪っていうのがなんとも言えない感じですよね。忌野清志郎さんの駐車場みたいな形で、何でもないものですよね、公園の園滑り台に雪っていう。その細部の設定が妙にリアリティを持って迫ってきて、当然すぐに溶けてしまいそうですよね。都市部にある雪っていうのは。それが溶けた滑り台なので、その艶やかな金属面に後でキラキラ光るだろうって、ちょっと先の風景も見せてくれて、それがこの関係性を象徴している。その風景の中に何とも言えない二人の関係が変わっていく気持ちが投影されていて、なんだか好きなんですよね。
司会 これは穂村さんの実体験の中から生まれた歌ですか。
穂村 いや。違うと思いますけどね。こんなこと訊かれた記憶はない。
司会 えへへ(笑い)。
東 え? そうなんですか。なんかすごくリアリティーありますよね。「まだ好き?」って。
穂村 滑れないよね、雪が積もってたら。つまり、機能しないんだよね、こんな時、滑り台ってのは。そういう好みがあるのかな、上手く言えないけど。廃車の山のミラーも本来の機能はできなくなっているというような、その時、機能していた時は道具なんだけど、より純粋な物質感が立ち上がってくる。なんかクセってあるんですよね。その人が短歌を作るときに意識してないんだけど、そっちに行ってしまう。コントロールを自分ではできない。まあ、個性っていうことなんだろうけど。こうやってみると、やっぱり二人ともすごくあるなって感じがね。
東 特徴がありますよね、他の人が選んでも。
穂村 東さんは悲しい短歌作ってる時、嬉しそうよね、なんか。不思議なんだけど、イキイキしてる。寂しいと悲しい時にイキイキしてるのが聴きしてるのが面白くて。
東 寂しいのが好きなんです。「寂しい。ああ、快感」みたいな。何でしょうね。
司会 寂しさが快感。
東 でも、これちょっと切ないですよね。やっぱり穂村さんもなんか滅んでいくものに対する哀感みたいなものがありますよね。
穂村 うん。あとは、短歌そのものがそういうものを要求してくるとこもあるんじゃないかな。
司会 それは、さっきのウェットだっていうことも。
穂村 なんか『続・赤いスイートピー』がやはり別れたのであろう、と聴く前からなんとなく「親子三人で公園にいる」ではないだろう、と思わせるような情感のパターンみたいなものが短歌にはあるんじゃないかなぁ。
東 そうですね。ある切なさがエネルギーになるというのがありますよね。
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