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【狂言小唄】『笑いの呪文』(超絶誤訳・音声変換)原作:ヴェリミール・フレーブニコフ

  我が国は西側陣営なので、ロシアの情報はなかなか入ってこない。いや、「敵側」のフィルターがかったものばかり、という印象だ。大昔、成人祝いに『ドストエフスキー全集』を古書で買おうとしたほどのロシア文学ファンである小生は、そこで、ロシア詩でも朗読してみるか、と調べるなかで出会ったのがヴェリミール・フレーブニコフの『笑いの呪文』だった。  しかし、学生時代、せいぜいドイツ語を第二外国語として学んだだけの小生には、ロシア語の音読などハードが高過ぎる。それでもアプリ再生で練習を重ねるうちに、「超絶誤訳・音声変換」で読むことを思い付いた。難しいロシア語発音を日本語に当てて、忠実な翻訳ではない、全く別の詩作を試みることにしたのである。折りしもイラン戦争中で、そんな情勢にも触発を受けることとなった。  狂言風に詠んでみた。(謳ってみた)。もともと「笑いの呪文」だけに、狂言が合っていると思った。動画は映像を添えられるので、言葉と絵のコラボが互いの「語られない部分」を補ってくれる。そのギャップが際立つものが出来たと思う。  As our country belongs to the Western bloc, information from Russia is not easily accessible. Or rather, much of what we receive feels filtered through the lens of an “enemy.” As someone who has long been fond of Russian literature—so much so that I once considered buying a second-hand complete works of Fyodor Dostoevsky as a coming-of-age gift—I found myself wondering if I might try reading Russian poetry aloud. It was in that process that I encountered Velimir Khlebnikov’s "Incantation by Laughter."  However, having studie...

短歌講座「ほむほむのふむふむ 」vol.4(完)「歳とともに、実人生を歌うようになる(穂村)」


玉蟲に平手食ったよ「割り勘ね」




今日の「深夜便」、四時台のインタビュー・ゲストは画家の原田泰治だったんだけど
朝日新聞の日曜版で絵と文章を書くようになって
文才のない自分は各地の観光パンフから解説をコピペしていたところ
某編集者に「切り貼り」を指摘され困惑が、
ある目の不自由な老婦から手紙で
「あなたの絵は拡大鏡を見なくてもあたたかさが伝わる」と言われて 猛省した、とのこと
「一人のひとに手紙を書くように、自分の言葉で書く」ことにした、とーー。

「一人の人」。胸を突かれた。
小生は商売人の性格ではない
人付き合いも下手
おべんちゃらも顔がひきつる
出来ればひとりでいたいほう
(家庭訪問、大嫌い!)
で、モノ書きやってるのだが
売文家にもなれずジリ貧が久しい
このまま合掌。。。というのも容易でないのが運命である
そこで、本日の一句

 玉蟲に平手食ったよ「割り勘ね」


では、「ほむほむのふむふむ 」vol.4。最終回をともに学びましょう!


司会 今日は最後になりますけども、穂村さんから東さんの歌、ご紹介いただけますか。

 花子さんがみかんを三つ買いましたお釣りは全部砂に埋めます


穂村 不思議な短歌ですよね。さっきの「そうですか綺麗でしたか」ってのも、この口調は一体何なんだろうって思うんだけど、「花子さんがみかんを三つ買いました」っていう口調って何だろう。これ、教科書とかにあるような。

司会 算数の問題のような気がします。

穂村 それで、お釣りは一ついくらで、いくらでしょうみたいな感じになるところが、「お釣りは全部砂に埋めます」って言う、ここが非常に意外なんだけど、お金を砂に埋めちゃうっていうのは、もうこの世界じゃないよね。この世界ってお金ベースで回ってるから、砂に埋めた時点で花子さんがいる場所はこの世界とは違う価値軸、体型の世界だっていう感じがして、そこに変な安らぎみたいなものを感じるのかなぁ。でも、思いつかないね、こんなことは。なんか、これが何か海に投げるとか、さっき指輪をクジラに投げるとか、それだって価値体系を壊してはいるんだけど、ちょっとそこに何かポーズがあるじゃない。海になんか投げるとかっていうのは。

司会 ちょっと格好つけるとか。

穂村 定型だしね。クジラに投げるっていうのも。砂に埋めちゃうんだっていう感じね。

司会 東さんの歌には、歌だけじゃなくて小説でも時々感じるんですけど、やっぱり不思議な世界と言うか、説明しきれない世界の風景と言うか様子と言うか、それが表現されてるのかなって思うときがあるんですけれど。

東 ありがとうございます。この歌を作った時を明確に覚えていて、友達のお子さんが小学校入学前の体験みたいなので、「花子さんがミカンを三つ買いました。お釣りはいくらでしょう」みたいな計算をする場合の「花子さん」が気になって、「花子さんって誰」っていう話になって、「いやいや。それは君が花子さんを人物としてちゃんと捉えたところが偉いと思うので、お釣りなんて面倒臭いことは考えず、砂にでも埋めとけばいいよ」という応援歌のつもりで作った歌です。

司会 はぁ。この世の中の消さんとか金勘定とかじゃなくて、「え? それは誰?」と思った子どもの気持ちを大事にした。

東 その想像性が面白いなあって思って、なんか世の中って合理性で動いてるようなところがあるんですけれど、そうではない部分を表現したいなっていうのが常にあって、それが巧く出来たとしたら嬉しいです。

司会 では、今日、最後は東さんから穂村さんの歌、ご紹介いただきます。

  終バスにふたりは眠る紫の「降りますランプ」に取り囲まれて


東 これはもう穂村さんの代表歌の一つですけれども、どこかこの二人は一日中一緒に楽しく過ごしてて、終バスで家に帰ってるシーンかなという風に想像するんですけれども、今にもその楽しい時間が終わりを告げようとしている瞬間で、「降りますランプ」が「もうすぐ降りなさいよ」っていう風に告げているっていう紫色に光る「降りますランプ」のイメージがとても綺麗で、かつ儚くて、甘美さと切なさの両面があると思うんですけども、ポイントは紫色を選んでいるっていうことかなと思うんですよね。紫って赤と青を混ぜて作る色で、寒色と暖色の両方入ってる中間の色なんですけども、それが暖かさもひんやりした感覚も持ってるっていう色の感覚が素晴らしいと思います。

穂村 本当は「降ります」って書いてないんだよね。「止まります」って書いてあるんだよね。でも「止まります」ボタンでは短歌にならないですよね。やっぱり「降ります」ランプじゃないとっていうのって頭で考えるわけじゃないけど、さっきも、りんごを二つ買ったんじゃ多分ダメで、みかんを三つっていう、そのリズムとか韻の踏み方みたいなものも多分、歌には関係していて、その辺は作る時には頭で作ってないんだけど、頭で推敲する時、そこは触らないようにして。

東 直感で出てきたリズムは。

穂村 なるべくね。

司会 今日はこうやって先月に続いてお二人の互選ということで、お互いの歌選んでいただきましたけれども、お付き合いが始まってからの30年。お互いの歌の印象って変わってきたところとかありますか。

東 そうですね。穂村さんは去年の5月に11年ぶりに歌集を出されて、『水中翼船炎上中』自分の子供から社会人の生活、それからお母さんが亡くなったことなど長い時間の中で起こったエピソードを恋愛ではない切り口から時間をテーマにまとめられた歌集で、テーマが変わったのかなっていう……そういう風に作られたと思うんですけど、最近作られた作品も昔の昭和時代のことを詠んだり、描こうとする世界観やテーマは変わってきたのかなって思いますね。

穂村 東さんの作品が変わってきたという以上に、東さんが作り出す世界の受け入れられ方の方が変わったっていう印象を僕は持っていて、昔、今日詠んだような歌を見た先輩たちはどこかこれはふわふわした童話的な世界だっていう言葉をよく言っていたような記憶があるんですよね。だけど、花子さんのみかんを三つ買いましたと、確かに文体が童話っぽいと言えば童話っぽいような感じもあるんだけど、そういうものが、でも、ふわふわしているわけじゃなくて、もう一つの別のリアリティを示しているって言う事が東さんの作品によって浸透してきたような気がしますね。最近そういう批評はあまり聞かなくなったので。

司会 読む側が変わった。

穂村 うん。いつ東さんは現実を書くんだろうみたいな批評があったと思うけど、これがもう一つの現実なんだっていう感覚ですかね。「お願いね」って渡されているみたいな言い方が優しいので、それまでの「なんとかなりけり」の世界で見るとすごくふわっとしたものに多分見えたんだと思うけど、それが読み手の側を成熟させる年月っていう感じがありますね。

司会 またお二人はこの30年来、短歌をお作りになるだけではなくて、他のジャンルと言いましょうか、短歌だけではない世界っていうのは。

穂村 書けなかったものが書けるようになるということはありますね。でも、逆に出来たことが出来なくなってる部分もあるので、その時々に出来ることをやっぱりやらないといけないっていう…。頭の中のイメージだけで作れたんですね、昔、短歌。若い頃。でも、それがだんだん出来なくなってきたなっていう感じはあって、どこかに何かもっと現実的な手触りみたいなものをほんの一滴でもいいから持って来ないと、そこから世界が作れなくなってきている。

東 割と実人生に起こったエピソードが入ってきてますよね、このあいだの歌集とか。お母さんの死とか、子ども時代の記憶とか。

穂村 そう。どこかでそれではいけないような気がするんだけど、そうしないと作れなくなってることはありますね。

東 そうですね。色んなジャンルをやってますけど、割と自分の中で浮かんできたイメージを違う表現方法で描き出してるって部分があって、それぞれの自分が描きたいものに合わせてそれぞれのジャンルをまたいろんな形で表現できたらいいかなと思っています。歌集も長く出してないので、そろそろまとめたいなと思ってるとこなんですけど、30年も経ってこの年齢になると、動じないような物凄い大人になると思ってたんですけど、本質は全然変わってないですよね、私たち。

穂村 東さんは見た目もあんまり変わってない(笑い)。見た目が変わらないと、中身も変らないのかも知れない。

東 穂村さんもあまり変わってないですよね。

穂村 だいぶ髪が白くなりましたけどね。

(完)

(戻る)→(その3)


【私見】穂村先生のコメント、いいね。歳とると、実人生を詠まねば世界が広がらない。
これって、イギリスの詩人、お能も書いたようなノーベル賞詩人でW.B.イエーツって人がいたんだが、彼も長いこと頭の中のイメージを象徴的に書いていたのが、後半生は徐々にリアリズム志向へ移ってきた。お勉強になりました。(合掌)

【本稿で扱われた本】

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