序 〜詩人との出会い
不器用な男である。
妄想の男である。
言葉の男である。
ゆえに
詩人であるーー。
拙いコピーの出だしだが
頂戴した詩誌を拝読しての印象である。
森氏との付き合いは長い。
かれこれ、二十年近いだろうか。
福岡のベーシストにして舞台芸術の重鎮
下松勝人氏が主宰する(現在も続行中!)
表現者たちの舞台だったか、
小生が関わっていた詩の競技会でだったか、
いずれにしろ
その出会いは衝撃的だった。
顔面にガムテープを巻いていたのだ!
しかもスーツ姿で。。。
完全に面食らった。
閉口した。
感想を抱く余地もない。
その奇抜さには人を寄せ付けぬ異風芬々たるもので
さすがのヘンタイ老毒屋もちょっと敬遠していた。
やがて
イベントに呼び呼ばれの仲となるものの
一身上の都合で蟄居が長引き
久々に森氏出演の朗読会を訪ねたところ
ガムテープ・パフォーマンスからは想像出来ぬ
威容に目と心を奪われたのだったーー。
(その詳細→
下松かつとプロデュース「大耳ライブ」詩人たちの夜Ⅱ 2019年11月3日
『黒い森』〜書評、というより感想
「GAGA」(No.77 2020.5)。
知る人ぞ知る老舗詩誌。
濃いメンバーに伍すどころか
そのページを埋め尽くす字数で圧倒的異彩を放っている
森氏の連作『黒い森』そのⅡと
読み切りの短編(散文詩風)『ラリラリ修学旅行記』が
このたび、頂いた最新号に収めれている。
その冒頭ーー。
次の戦争を話すつもりだったが、もう始まってしまった。
しかもそれは、呆れるほど古臭い。ポトラッチの様に殺し、臨時政府を立ち上げ、埋火の様に隠された地雷。言葉でなく富が乱され、きょうだいが対立する。
ぼくの物語りは、次の次ぐらいで良さそうだ。(『黒い森(Ⅱ)ー消える枝ー』より)
とはいえ、
前号(Ⅰ)同様、
詩人の幼少期らしきが綴られてゆく。
(1)では
修道女の姉妹との隠微な抒情と
母親への恋慕に切なく終わるのだが
今回は男児らしく
シトロエンの2CVが疾走するところから開幕する。
少年の眼はそこから飲んでいる紙パックへ移り
気づくと掌中には枝(骨片?)が。。。
詳細は本誌に委ねるとして
「思い出の語り方も知らない、五歳のぼく」とある如く
詩人の驚くべき記録力は驚異的とも言えよう。
とにかく微細なのだ。
「好きな女の子」
「あこがれのヒーロ」の箇所など
いかにも悪童らしき無邪気さに微笑が漏れる。
その一方で
「叱られ、いじめられ、大泣きして……」といった
感傷も赤裸々に表明されていて
幼ながらに「人生」を生きている殊勝さが憐みそそる。
それは誰しものことだろうが
それらを言語化し作品へと昇華させるあたり
詩人の詩人たる所以がある。
火の粉か、いや燃える葉と枝。掌ほどの塊が、炎を輝かし、風任せに翔ぶ。その幾つかは空と地の間へ宿り、己が灰を糧にし、繁茂する。(同上)
挿入される連詩ーー本編へ寄せては返す漣のごとき役割ーーの
「己が灰を糧にし」のように
”さよなら昭和40年代”と叫ぶ森氏は
自分史(詩)を書き残すことによって
人生に落とし前を付けようとしているのだろうか。
そう言えば
前号の冒頭に、こうあった。
詩を続けるとして、その強い惹句に、ぼくはどう落とし前をつけたものか。(『黒い森(Ⅰ)ー厄災迫るー』 GAGA No.76 2019.12 より)
「落とし前」の付け方にも色々あって
エログロ老毒詩人の小生は
いよいよ良き年齢に突入しているというのに
反抗児さながらの言動を無反省にも繰り返して
リベンジでも試みているようだが
(お陰で、ブログもツイッターも閑古鳥。。。)
それに反して
誠実で美しい魂の詩人は
パフォーマンスと詩作によって
後半生を賢明にも麗しく飾ろうとしているようで
頭が下がる。
蛮勇は決して「勇敢」とは言えないのだ。
それはさておき
有難いことに
今回、詩誌を送って頂き
「自己顕示」と「傷の舐め合い」のSNSから
ひととき遠ざかることが出来た。
印刷物を手に触れ、熟読するということなど
一体、何年振りか、と言っていいほどの懐かしき快感だった。
(悦楽は何もエロのみとは限らない!)
『ラリラリ修学旅行記』のほうは
是非、詩誌を手に一読を勧める。
これは『黒い森』の
昔風に言えば「B面(サイド)」に値する狂想曲である。
その破天荒な疾走感を
小生の拙き筆で失速させたくない。
ただ
『黒い森』同様に文字がビッシリ、という点では
「顔面ぐるぐる巻きの男は実は喋りたくてたまらぬのだ!」という
熱烈な衝動満載であることだけ共通である。
敢えて詩句ぶちまくゆえの緘口令
テープの下のマグマは熱かった!!!
【追記】森氏所収の詩誌「GAGA」は、「箱崎水族館喫茶室」にて取り扱い。
詩誌「GAGA」 facebook
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