山笠も無事終わり、興奮冷めやらぬ博多の街である。そこへ、なにやら辛気臭い句で、「勢水」ならまだしも「冷や水」を浴びせるようで恐縮だが、トピックとしては(選挙も含めて)タイムリーと思われ、紹介させて頂く。
むざんやな神輿の下の平和論 poetaq
「世界のどこかで内戦やテロ行為が続く。いささか平和ボケした日本人である。歴史的武将がまつられた豪華な山車の下で交わされる平和論。芭蕉句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」がモチーフになっていて、議論へのむなしさが出た、いいコラボ。」
これは、「フォト俳句」の巨匠・中谷吉隆選による小生の記念すべき俳句デビュー作である。2017年 9/14 信濃毎日新聞付けに紹介頂いた。中谷氏を知らぬかたのために、「BOOK著者紹介情報」より引用させ頂く。
中谷/吉隆
写真家、日本写真家協会会員、俳句一滴会同人(俳号・龍子)。昭和12年、広島県生まれ。東京新聞社出版写真部を経て、昭和35年にフリーランスとなり現在に至る。ルポルタージュ、人物、スポーツ、風景、歴史写真などの幅広い分野で活躍。また、多くの写真展を開催し、各種写真コンテストの審査員、NHK文化センター、JCIIフォトクリニック等で写真講座講師を務める
ご覧のとおり、フォトと俳句の二刀流、まさに絵師にして俳人の蕪村を彷彿する。小生は「お前はどれも二番煎じの何でも屋」とけなされたことがあるが、この「複眼的思考」を負け犬なりにも大事にしたい、と思っている。(もっとも、そうとでも思わないと、やれ「○○受賞」、やれ「どこそこで出演」といったヒーローらに混ざって厚かましくも書いたり読んだり出来ぬではないか!)
俳句は20世紀最大の天才詩人エズラ・パウンドが注目するだけあって、贅肉のないシンプルさがいい。スマホを手放せなくなっている我々は余りにもお喋りである。しかも、内容がない。どうでもいいことばかりだ。想像力など湧きやしない。さながら水鉄砲のように言葉を次々とぶつけ合う。遅れてはダメだ。その瞬間瞬間を、顧みることなく、感情に任せて放る。その言説は往々にして火傷しそうなほどエモーショナルであり、幼稚である。砂場の喧嘩。円満な解決などありやしない。
折りしも、選挙戦真っ只中である。が、正直、今、大人気らしい太郎ちゃんの熱弁も、「嘘臭い」とまでは言わないが、心動かされない。涙で訴えられても、それに感動するには、小生も歳を取り過ぎた。理想もない、夢もない。ただ、きょう、この一日を、こうしてブログを書けているというだけで、「なんとなくシアワセ」なのだ。
(そうそう。「なんとなく」で「なんとなくクリスタル」の著者・田中康夫ちゃんを思い出したが、「議員」って、売れなくなった作家や役者にとっては、「再びヒーローに返り咲き」という意味で魅力的なんだろうね。まあ、そうして大衆の目に自ら晒さねばならぬほど、彼・彼女らの自己顕示欲と功名心の高さ・満たされぬ心の闇の深さたるや尋常でないのだろう)
句は二年前のものだが、そうした心情も反映されていたと思う。思えば、「満たされぬ」のは私も同じだ。だから、書いたりし、朗読したりするのだろう。サヘル・ローズが言っていたが、「辛(つら)い」に横棒一本加えると、「幸」になる。「幸福といったって、辛さがなければ、真の幸福はない」と。ああ。マザー・テレサの再来か! あなたに座布団どころか、ノーベル・メダルを授与したい。
つらつら書いてしまった。人間というのは、しかし、なぜ、こうして書いたり読んだりせねばならないのだ。鳥は書かない。熊は読まない。ましてナマコは動かない。それでいて充足している。縄張り争いはしたとしても、徒党を組んで戦はしない。
いや、するか。確か、小さい青魚の群れは一つの竜巻を形成して、天敵を脅すシーンを見たことがある。ああ。でも、あれは自衛しているのだったか。ふん。「集団的自衛権」だな。もっとも、他の種のために、わざわざ竜巻を起こさぬが……。
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