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【8月9日 長崎原爆祈念の日に寄す】能楽朗誦「じゃがたら文―和歌四首」 /In Remembrance of Nagasaki — Aug. 9 | Noh Recitation: Four Waka from Batavia

 【8月9日 長崎原爆祈念の日に寄す】「日本こいしや」――じゃがたら文を朗誦する  長崎の銘菓に「長崎物語」というお菓子がある。  細長いバームクーヘンの中にクリームが入った、昔から馴染みのある長崎土産だが、あの包装紙に書かれている文字を、これまでじっくり読んだことのある人は、案外少ないのではないだろうか。そこに使われているのは、「じゃがたら文」である。  江戸初期、禁教と鎖国政策のなかで、外国人の父と日本人の母との間に生まれた子どもたちなどが、長崎や平戸から「ジャガタラ」――現在のインドネシア・ジャカルタ――へ追放された。 「長崎物語」の包装紙にあしらわれているのは、その一人、「こしょろ」が日本へ送った文を書きつけた更紗の袱紗である。  そこには、「日本こいしや、こいしや」という、なんとも単純で、それゆえに胸に残る言葉がある。  子供の頃から何度となく目にしてきたかもしれない長崎土産の包み紙。その模様だと思っていたものの奥に、遠い異国から、二度と帰ることのできない故郷を思う一人の女性の声があった。  今回、私は「じゃがたら文」を題材に、能楽風の朗誦作品を作った。朗誦したのは「こしょろ」の文ではなく、西川如見『長崎夜話草』に「お春」の手紙として収められた四首の和歌である。遠く海を隔てた土地から、長崎を思う。帰りたい。しかし、帰れない。その思いを、謡曲のような声にしてみたかった。  もっとも、『長崎夜話草』の「お春のじゃがたら文」については、お春自身の直筆書簡ではなく、西川如見の創作、あるいは伝承をもとに文学的な潤色を施したものではないか、という説もある。だからこれは、歴史資料をそのまま「再現」した作品ではない。むしろ、何百年もの時間を越えて残った「故郷を恋うる声」を、いま一度、声として響かせてみようとしたものである。 (参考サイト  長崎市「ナガジン!」コショロのじゃがたら文   菓舗 唐草「長崎物語」公式ページ )  そして8月9日。「じゃがたら文」の時代と、1945年8月9日の長崎原爆とは、もちろん何の歴史的な因果関係もない。それでも私には、長崎を故郷としながら、その長崎へ帰ることのできなかった人の声を、この日に聴き直してみたいという思いがあった。 「日本こいしや、こいしや」  海の彼方から届いたその言葉を、長崎という土地が抱えてきた長い記憶の一つとして...

(フォト拝句)むざんやな



 山笠も無事終わり、興奮冷めやらぬ博多の街である。そこへ、なにやら辛気臭い句で、「勢水」ならまだしも「冷や水」を浴びせるようで恐縮だが、トピックとしては(選挙も含めて)タイムリーと思われ、紹介させて頂く。 

 むざんやな神輿の下の平和論  poetaq

「世界のどこかで内戦やテロ行為が続く。いささか平和ボケした日本人である。歴史的武将がまつられた豪華な山車の下で交わされる平和論。芭蕉句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」がモチーフになっていて、議論へのむなしさが出た、いいコラボ。」


 これは、「フォト俳句」の巨匠・中谷吉隆選による小生の記念すべき俳句デビュー作である。2017年 9/14  信濃毎日新聞付けに紹介頂いた。中谷氏を知らぬかたのために、「BOOK著者紹介情報」より引用させ頂く。

中谷/吉隆
写真家、日本写真家協会会員、俳句一滴会同人(俳号・龍子)。昭和12年、広島県生まれ。東京新聞社出版写真部を経て、昭和35年にフリーランスとなり現在に至る。ルポルタージュ、人物、スポーツ、風景、歴史写真などの幅広い分野で活躍。また、多くの写真展を開催し、各種写真コンテストの審査員、NHK文化センター、JCIIフォトクリニック等で写真講座講師を務める


 ご覧のとおり、フォトと俳句の二刀流、まさに絵師にして俳人の蕪村を彷彿する。小生は「お前はどれも二番煎じの何でも屋」とけなされたことがあるが、この「複眼的思考」を負け犬なりにも大事にしたい、と思っている。(もっとも、そうとでも思わないと、やれ「○○受賞」、やれ「どこそこで出演」といったヒーローらに混ざって厚かましくも書いたり読んだり出来ぬではないか!)

 俳句は20世紀最大の天才詩人エズラ・パウンドが注目するだけあって、贅肉のないシンプルさがいい。スマホを手放せなくなっている我々は余りにもお喋りである。しかも、内容がない。どうでもいいことばかりだ。想像力など湧きやしない。さながら水鉄砲のように言葉を次々とぶつけ合う。遅れてはダメだ。その瞬間瞬間を、顧みることなく、感情に任せて放る。その言説は往々にして火傷しそうなほどエモーショナルであり、幼稚である。砂場の喧嘩。円満な解決などありやしない。

 折りしも、選挙戦真っ只中である。が、正直、今、大人気らしい太郎ちゃんの熱弁も、「嘘臭い」とまでは言わないが、心動かされない。涙で訴えられても、それに感動するには、小生も歳を取り過ぎた。理想もない、夢もない。ただ、きょう、この一日を、こうしてブログを書けているというだけで、「なんとなくシアワセ」なのだ。

(そうそう。「なんとなく」で「なんとなくクリスタル」の著者・田中康夫ちゃんを思い出したが、「議員」って、売れなくなった作家や役者にとっては、「再びヒーローに返り咲き」という意味で魅力的なんだろうね。まあ、そうして大衆の目に自ら晒さねばならぬほど、彼・彼女らの自己顕示欲と功名心の高さ・満たされぬ心の闇の深さたるや尋常でないのだろう)

 句は二年前のものだが、そうした心情も反映されていたと思う。思えば、「満たされぬ」のは私も同じだ。だから、書いたりし、朗読したりするのだろう。サヘル・ローズが言っていたが、「辛(つら)い」に横棒一本加えると、「幸」になる。「幸福といったって、辛さがなければ、真の幸福はない」と。ああ。マザー・テレサの再来か! あなたに座布団どころか、ノーベル・メダルを授与したい。

 つらつら書いてしまった。人間というのは、しかし、なぜ、こうして書いたり読んだりせねばならないのだ。鳥は書かない。熊は読まない。ましてナマコは動かない。それでいて充足している。縄張り争いはしたとしても、徒党を組んで戦はしない。
 
 いや、するか。確か、小さい青魚の群れは一つの竜巻を形成して、天敵を脅すシーンを見たことがある。ああ。でも、あれは自衛しているのだったか。ふん。「集団的自衛権」だな。もっとも、他の種のために、わざわざ竜巻を起こさぬが……。

【フォト拝句】→玉蟲に

【フォト俳句 関連本】






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