スキップしてメイン コンテンツに移動

注目

【狂言小唄】『笑いの呪文』(超絶誤訳・音声変換)原作:ヴェリミール・フレーブニコフ

  我が国は西側陣営なので、ロシアの情報はなかなか入ってこない。いや、「敵側」のフィルターがかったものばかり、という印象だ。大昔、成人祝いに『ドストエフスキー全集』を古書で買おうとしたほどのロシア文学ファンである小生は、そこで、ロシア詩でも朗読してみるか、と調べるなかで出会ったのがヴェリミール・フレーブニコフの『笑いの呪文』だった。  しかし、学生時代、せいぜいドイツ語を第二外国語として学んだだけの小生には、ロシア語の音読などハードが高過ぎる。それでもアプリ再生で練習を重ねるうちに、「超絶誤訳・音声変換」で読むことを思い付いた。難しいロシア語発音を日本語に当てて、忠実な翻訳ではない、全く別の詩作を試みることにしたのである。折りしもイラン戦争中で、そんな情勢にも触発を受けることとなった。  狂言風に詠んでみた。(謳ってみた)。もともと「笑いの呪文」だけに、狂言が合っていると思った。動画は映像を添えられるので、言葉と絵のコラボが互いの「語られない部分」を補ってくれる。そのギャップが際立つものが出来たと思う。  As our country belongs to the Western bloc, information from Russia is not easily accessible. Or rather, much of what we receive feels filtered through the lens of an “enemy.” As someone who has long been fond of Russian literature—so much so that I once considered buying a second-hand complete works of Fyodor Dostoevsky as a coming-of-age gift—I found myself wondering if I might try reading Russian poetry aloud. It was in that process that I encountered Velimir Khlebnikov’s "Incantation by Laughter."  However, having studie...

(フォト拝句)むざんやな



 山笠も無事終わり、興奮冷めやらぬ博多の街である。そこへ、なにやら辛気臭い句で、「勢水」ならまだしも「冷や水」を浴びせるようで恐縮だが、トピックとしては(選挙も含めて)タイムリーと思われ、紹介させて頂く。 

 むざんやな神輿の下の平和論  poetaq

「世界のどこかで内戦やテロ行為が続く。いささか平和ボケした日本人である。歴史的武将がまつられた豪華な山車の下で交わされる平和論。芭蕉句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」がモチーフになっていて、議論へのむなしさが出た、いいコラボ。」


 これは、「フォト俳句」の巨匠・中谷吉隆選による小生の記念すべき俳句デビュー作である。2017年 9/14  信濃毎日新聞付けに紹介頂いた。中谷氏を知らぬかたのために、「BOOK著者紹介情報」より引用させ頂く。

中谷/吉隆
写真家、日本写真家協会会員、俳句一滴会同人(俳号・龍子)。昭和12年、広島県生まれ。東京新聞社出版写真部を経て、昭和35年にフリーランスとなり現在に至る。ルポルタージュ、人物、スポーツ、風景、歴史写真などの幅広い分野で活躍。また、多くの写真展を開催し、各種写真コンテストの審査員、NHK文化センター、JCIIフォトクリニック等で写真講座講師を務める


 ご覧のとおり、フォトと俳句の二刀流、まさに絵師にして俳人の蕪村を彷彿する。小生は「お前はどれも二番煎じの何でも屋」とけなされたことがあるが、この「複眼的思考」を負け犬なりにも大事にしたい、と思っている。(もっとも、そうとでも思わないと、やれ「○○受賞」、やれ「どこそこで出演」といったヒーローらに混ざって厚かましくも書いたり読んだり出来ぬではないか!)

 俳句は20世紀最大の天才詩人エズラ・パウンドが注目するだけあって、贅肉のないシンプルさがいい。スマホを手放せなくなっている我々は余りにもお喋りである。しかも、内容がない。どうでもいいことばかりだ。想像力など湧きやしない。さながら水鉄砲のように言葉を次々とぶつけ合う。遅れてはダメだ。その瞬間瞬間を、顧みることなく、感情に任せて放る。その言説は往々にして火傷しそうなほどエモーショナルであり、幼稚である。砂場の喧嘩。円満な解決などありやしない。

 折りしも、選挙戦真っ只中である。が、正直、今、大人気らしい太郎ちゃんの熱弁も、「嘘臭い」とまでは言わないが、心動かされない。涙で訴えられても、それに感動するには、小生も歳を取り過ぎた。理想もない、夢もない。ただ、きょう、この一日を、こうしてブログを書けているというだけで、「なんとなくシアワセ」なのだ。

(そうそう。「なんとなく」で「なんとなくクリスタル」の著者・田中康夫ちゃんを思い出したが、「議員」って、売れなくなった作家や役者にとっては、「再びヒーローに返り咲き」という意味で魅力的なんだろうね。まあ、そうして大衆の目に自ら晒さねばならぬほど、彼・彼女らの自己顕示欲と功名心の高さ・満たされぬ心の闇の深さたるや尋常でないのだろう)

 句は二年前のものだが、そうした心情も反映されていたと思う。思えば、「満たされぬ」のは私も同じだ。だから、書いたりし、朗読したりするのだろう。サヘル・ローズが言っていたが、「辛(つら)い」に横棒一本加えると、「幸」になる。「幸福といったって、辛さがなければ、真の幸福はない」と。ああ。マザー・テレサの再来か! あなたに座布団どころか、ノーベル・メダルを授与したい。

 つらつら書いてしまった。人間というのは、しかし、なぜ、こうして書いたり読んだりせねばならないのだ。鳥は書かない。熊は読まない。ましてナマコは動かない。それでいて充足している。縄張り争いはしたとしても、徒党を組んで戦はしない。
 
 いや、するか。確か、小さい青魚の群れは一つの竜巻を形成して、天敵を脅すシーンを見たことがある。ああ。でも、あれは自衛しているのだったか。ふん。「集団的自衛権」だな。もっとも、他の種のために、わざわざ竜巻を起こさぬが……。

【フォト拝句】→玉蟲に

【フォト俳句 関連本】






コメント