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注目

【文語のエロティシズム】〜蒲原有明『有明集』から「愛欲の詩 四篇」を。

  文語(明治期)の色気を求めて土井晩翠から探索を始めたが、「詩人」のバロディーが浮かんだだけで、格調高いがエロティシズムは残念ながら見出せず、続く詩人として「蒲原有明」を読んでみた。  複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として、『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋、三木露風らに影響を与えた。   蒲原有明(Wikipedia)  死とエロスの香り漂う「われ迷ふ」を作曲してみたが歌で終わるのが物足りなく、朗読することに。  文語の色気をご堪能あれ。 **The Eroticism of Literary Japanese** — Four Poems of Desire from Kambara Ariake’s *Ariake-shū* In search of the sensuality of Meiji-period literary Japanese, the exploration began with Doi Bansui. But aside from the parody “The Poet,” what emerged was grandeur and dignity rather than eroticism. So the search moved on to Kambara Ariake, one of the major poets who emerged after Doi Bansui. A Symbolist poet known for his intricate vocabulary and rhythms, Ariake published such collections as *Dokugen Aika*, *Shunchōshū*, and *Ariake-shū*. Often mentioned alongside Susukida Kyūkin, he went on to influence poets including Kitahara Hakushū and Miki Rofū. from "Kambara Ariake (Wikipedia)"  蒲原有明(Wikipedia) A musical setting was first made f...

(フォト拝句)むざんやな



 山笠も無事終わり、興奮冷めやらぬ博多の街である。そこへ、なにやら辛気臭い句で、「勢水」ならまだしも「冷や水」を浴びせるようで恐縮だが、トピックとしては(選挙も含めて)タイムリーと思われ、紹介させて頂く。 

 むざんやな神輿の下の平和論  poetaq

「世界のどこかで内戦やテロ行為が続く。いささか平和ボケした日本人である。歴史的武将がまつられた豪華な山車の下で交わされる平和論。芭蕉句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」がモチーフになっていて、議論へのむなしさが出た、いいコラボ。」


 これは、「フォト俳句」の巨匠・中谷吉隆選による小生の記念すべき俳句デビュー作である。2017年 9/14  信濃毎日新聞付けに紹介頂いた。中谷氏を知らぬかたのために、「BOOK著者紹介情報」より引用させ頂く。

中谷/吉隆
写真家、日本写真家協会会員、俳句一滴会同人(俳号・龍子)。昭和12年、広島県生まれ。東京新聞社出版写真部を経て、昭和35年にフリーランスとなり現在に至る。ルポルタージュ、人物、スポーツ、風景、歴史写真などの幅広い分野で活躍。また、多くの写真展を開催し、各種写真コンテストの審査員、NHK文化センター、JCIIフォトクリニック等で写真講座講師を務める


 ご覧のとおり、フォトと俳句の二刀流、まさに絵師にして俳人の蕪村を彷彿する。小生は「お前はどれも二番煎じの何でも屋」とけなされたことがあるが、この「複眼的思考」を負け犬なりにも大事にしたい、と思っている。(もっとも、そうとでも思わないと、やれ「○○受賞」、やれ「どこそこで出演」といったヒーローらに混ざって厚かましくも書いたり読んだり出来ぬではないか!)

 俳句は20世紀最大の天才詩人エズラ・パウンドが注目するだけあって、贅肉のないシンプルさがいい。スマホを手放せなくなっている我々は余りにもお喋りである。しかも、内容がない。どうでもいいことばかりだ。想像力など湧きやしない。さながら水鉄砲のように言葉を次々とぶつけ合う。遅れてはダメだ。その瞬間瞬間を、顧みることなく、感情に任せて放る。その言説は往々にして火傷しそうなほどエモーショナルであり、幼稚である。砂場の喧嘩。円満な解決などありやしない。

 折りしも、選挙戦真っ只中である。が、正直、今、大人気らしい太郎ちゃんの熱弁も、「嘘臭い」とまでは言わないが、心動かされない。涙で訴えられても、それに感動するには、小生も歳を取り過ぎた。理想もない、夢もない。ただ、きょう、この一日を、こうしてブログを書けているというだけで、「なんとなくシアワセ」なのだ。

(そうそう。「なんとなく」で「なんとなくクリスタル」の著者・田中康夫ちゃんを思い出したが、「議員」って、売れなくなった作家や役者にとっては、「再びヒーローに返り咲き」という意味で魅力的なんだろうね。まあ、そうして大衆の目に自ら晒さねばならぬほど、彼・彼女らの自己顕示欲と功名心の高さ・満たされぬ心の闇の深さたるや尋常でないのだろう)

 句は二年前のものだが、そうした心情も反映されていたと思う。思えば、「満たされぬ」のは私も同じだ。だから、書いたりし、朗読したりするのだろう。サヘル・ローズが言っていたが、「辛(つら)い」に横棒一本加えると、「幸」になる。「幸福といったって、辛さがなければ、真の幸福はない」と。ああ。マザー・テレサの再来か! あなたに座布団どころか、ノーベル・メダルを授与したい。

 つらつら書いてしまった。人間というのは、しかし、なぜ、こうして書いたり読んだりせねばならないのだ。鳥は書かない。熊は読まない。ましてナマコは動かない。それでいて充足している。縄張り争いはしたとしても、徒党を組んで戦はしない。
 
 いや、するか。確か、小さい青魚の群れは一つの竜巻を形成して、天敵を脅すシーンを見たことがある。ああ。でも、あれは自衛しているのだったか。ふん。「集団的自衛権」だな。もっとも、他の種のために、わざわざ竜巻を起こさぬが……。

【フォト拝句】→玉蟲に

【フォト俳句 関連本】






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