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【2026年度共通テスト国語漢文に学ぶ】「党同伐異〜現代詩潮」長野豊山著「松陰快談」より  Modern Poetry Trends

  「詩人」を自称する輩の、一体、何人の詩人が、本年度の共通テスト「国語」の漢文に目を通しただろうか。設問文は、江戸後期の漢学者・長野豊山の「松陰快談」から、彼の詩論が述べられている段だった。とりわけ胸に響いたのは、「党同伐異」の四文字。語彙解説に「同じ考えの者をひいきして、異なる考えの者を攻撃する」と付記してあった。これで思い出した。数年前、ツイートで詩の募集があり、審査員が私の知る人たちであったこともあり、応募した。豊山ではないが、彼張りに現代詩潮の批判めいた朗読作品だったが、見事に落とされた。入選者を見ると、彼ら各人の知人が目立った。要するに、仲間を選び、アンチを排斥したわけだ。 「松陰快談」は200年前のものだが、当時も現代も鼻高々なインテリのメンタリティーは全く変わらないものだと思い知らされた。  さらに、面白く読んだのは、「詩は主題の立て方が陳腐で、ただ見慣れぬ文字や言葉を多用し、幼稚さを隠しているだけだった。」という一節。現代詩は、(とりわけ日本のそれは)、一体、何を詠んでいるのか。今朝、お相手に作ってもらったサラダの美味しさか? セックスか? 政治か? もっとも、どれも詩のテーマになり得るのだろうが、とにかく、Google翻訳のような、詩人の名を隠すと誰が書いても同じように読めてしまう、実にカッコいい、奇妙奇天烈な詩句の羅列に時間と労力を取られるより、いっそ外国語を学ぼう、そこから日本語を再検討しよう、と思い立ち今日に至っている私に、豊山の詩論は刺激的で励ましにもなった。そして、この文章を入試に選んだ先生に拍手を送りたく思った。受験も捨てたものじゃないな。  How many people who call themselves “poets,” I wonder, actually bothered to read the Chinese-classical passage on this year’s Common Test for University Admissions (Japanese language section)? The excerpt used for the questions came from Shōin Kaidan by Nagano Hōzan, a late-Edo-period schola...

(書簡風)「キャンベル先生へ」 (『井上陽水英訳詞集』に寄せて)

「福岡ポエトリー」にて『井上陽水英訳詞集』を紹介

ロバート・キャンベル先生へ


 先日は私の唐突かつ不躾なツイートにご回答頂き、ありがとうございました。
ようやくご著書『井上陽水英訳詞集』が届き、読ませて頂きました。
『花筐』について触れられた箇所。私の拙き謡を僭越ながら動画サイトに文字アニメ化してしまった世阿弥の名作ですが、まさか、その七百年前の流麗な詞章と、井上陽水という前世紀以来のシュールな世界(「ダンスはうまく踊れない」)とが、「謡」と「歌」によって時空を超えて並ぼうとは想像もし得ないことでありました。もはや我々日本人さえ見向きもしなくなった古典の泰斗たる先生の聖業、驚嘆と感謝に耐えません。引用させて頂きますとーー

 心ここにあらず舞い回る女の姿は、時代も場所もがらりと変わりますが、日本の能にも通じます。「狂女物」といって乱心した女をシテとするジャンルがあります。よるべない女が身の辛さを、それでも募る恋人への想いを高ぶらせて舞って見せます(『班女』『花筐』)。もっとも能では、狂女の想いは男に通じ、結ばれるというハッピーエンドで終わるところは、陽水さんの踊る女には与えられるはずがないのですが。
(同書 p146)

 先生が引かれる古典は世阿弥にとどまりません。川端康成『雪国』では、「源氏」を愛し日本に帰化までされたドナルド・キーン氏を悩ませた「川端のあいまいさ」の嘆きを引かれつつ、陽水の詩と、切迫する病状のさ中に痛感されていた「余白と曖昧」を述べられます。
 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』では、「闇」「暗さ」「深さ」を、「積み荷のない船」を通して考察。江戸時代の戯作の一手法「吹き寄せ」を、「アジアの純真」「ドレミのため息」に見出される。そのように陽水の「歌詞の木立の中を歩きながら」、先生は我々に、いかに陽水が「現代詩のように読める」かを教えてくれました。先生はこう言われます。

 曲から離れて読むことによって初めて意味純粋に言葉として受け止められるようになるからです(と言っても、読者たちは英訳くらいまで距離をとらないと、それは得られないとは思いますが)。(同書 p154−4)

 中でも私が印象に残っている引用作家が二人います。宮沢賢治と三島由紀夫。賢治を嫌う人は、日本人には余りいないでしょうが(なにせ、学校の先生が好んで教材にしそう)、陽水はその聖人ぶりを、愛に満ちたアイロニーで美事に歌い上げる。「ワカンナイ」で。(私も、その「ワカンなさ」に共感!)
 そして、三島ですが、最後に引用させて頂きます。些か長くなりますが、私が最も心打たれ(多分、自分に当てはまるから?)、自戒を込める意味でもーー。


 (三島、自決4ヶ月にサンケイ新聞紙上に寄稿した一文「果たし得ていない約束ーー私の中の二十五年」70年7月7日)
 私の中の二十五年間を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど 「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。(中略)このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのだろう。(以上)

 SNS上に続々と産まれる顔のない言葉の、あくまでも安全地帯からの中傷や悪意。悪さをするのっぺらぼうは、「無機的、からっぽ、ニュートラル、中間色、富裕、抜目がない」という三島の発言と重なる部分があるように思えます。(同書 p45)


 長々と失礼いたしました。冒頭の、福岡在住期、そして、その後のご闘病も胸に迫るものでした。まさに、子規の『病牀六尺』。そこで、陽水の英訳をされた。文学が、詩歌が消えゆく生命に復活を齎した。キャンベル先生、ありがとうございました! 私も「誤字熟語」作家らしく、これから富裕でなく浮遊の人生を和漢なくAME心臓的に生きてMILE所存です。

乱筆お許しを。
POETAQーー。



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【引用文献】

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