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【高市総理・所信表明演説に引用】「憲法十七条(604年 聖徳太子制定)」をClub Mixで読む! [Quoted in Prime Minister Takaichi’s Policy Speech] “Seventeen-Article Constitution (AD 604, enacted by Prince Shōtoku)” — Read in a Club Mix!

  10月24日の、高市早苗総理の所信表明演説を締めくくった聖徳太子制定「憲法十七条」第十七項。 「事ひとり断(さだ)むべからず。必ず衆(もろとも)とともによろしく論(あげつら)ふべし」 高市早苗首相の所信表明演説の全文(日本経済新聞 Web) (Club Mix 聖徳太子制作「十七條憲法」(604年)Poetry Reading by POETAQ  より)  憲法十七条は西暦604年制定だから、1421年も前。そこには、官僚の汚職、嫉妬、非礼を戒め、精勤を薦めている。いわば、「飛鳥朝の官人コンプライアンス」。読んで、改めて昔から変わらぬ人間(とりわけ、上に立つ者)の醜悪さを思い知らされた。 (【現代語訳ボタン選択】Club Mix 聖徳太子制作「十七條憲法」(604年)※現代語訳ボタン選択) 憲法十七條 和 一に曰はく、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗と為よ。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て、或は君父に順はずして乍た隣里に違ふ。然れども上和ぎ、下睦びて事を論ふに諧ふときは、則ち事理自らに通ふ、何事か成らざらむ。 仏 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生の 終帰、 萬国の極宗なり。何の世何の人か是の法を貴ばざる。人尤だ悪しきもの鮮し。能く教ふるときは従ふ。 其れ三宝に帰りまつらずば、何を以てか枉れるを直さむ。 詔 三に曰はく、詔 を承りては必ず謹め。君をば則ち天とす、臣をば則ち地とす。天覆ひ地載せて、四時順り行き、萬気通ふことを得。地、天を覆はむと欲るときは、則ち壊るることを致さむのみ。是を以て君言ふときは臣 承り、上行ふときは下靡く。故に詔を承りては必ず 慎め、謹まずんば自らに敗れなむ。 礼 四に曰はく、群卿百寮、 礼を以て本と為よ。其れ民を治むる本は、要ず礼に在り。上礼なきときは下斉ほらず、下礼無きときは、必ず罪有り。是を以て群臣 礼有るときは位次乱れず、百姓礼有るときは国家自ら治まる。 訟 五に曰はく、饗を絶ち欲を棄てて、明かに訴訟を弁へよ。 其れ百姓の訟は、一日に、千事あり。一日すら尚爾るを、況んや歳を累ねてをや。 頃、訟を治むる者、利を得て常と為し、賄を見て讞を聴す。便ち財有るものの訟は、石をもて水に投ぐるが如く、乏しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民、則ち所由を知らず、臣道亦焉に闕けぬ...

(書簡風)「キャンベル先生へ」 (『井上陽水英訳詞集』に寄せて)

「福岡ポエトリー」にて『井上陽水英訳詞集』を紹介

ロバート・キャンベル先生へ


 先日は私の唐突かつ不躾なツイートにご回答頂き、ありがとうございました。
ようやくご著書『井上陽水英訳詞集』が届き、読ませて頂きました。
『花筐』について触れられた箇所。私の拙き謡を僭越ながら動画サイトに文字アニメ化してしまった世阿弥の名作ですが、まさか、その七百年前の流麗な詞章と、井上陽水という前世紀以来のシュールな世界(「ダンスはうまく踊れない」)とが、「謡」と「歌」によって時空を超えて並ぼうとは想像もし得ないことでありました。もはや我々日本人さえ見向きもしなくなった古典の泰斗たる先生の聖業、驚嘆と感謝に耐えません。引用させて頂きますとーー

 心ここにあらず舞い回る女の姿は、時代も場所もがらりと変わりますが、日本の能にも通じます。「狂女物」といって乱心した女をシテとするジャンルがあります。よるべない女が身の辛さを、それでも募る恋人への想いを高ぶらせて舞って見せます(『班女』『花筐』)。もっとも能では、狂女の想いは男に通じ、結ばれるというハッピーエンドで終わるところは、陽水さんの踊る女には与えられるはずがないのですが。
(同書 p146)

 先生が引かれる古典は世阿弥にとどまりません。川端康成『雪国』では、「源氏」を愛し日本に帰化までされたドナルド・キーン氏を悩ませた「川端のあいまいさ」の嘆きを引かれつつ、陽水の詩と、切迫する病状のさ中に痛感されていた「余白と曖昧」を述べられます。
 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』では、「闇」「暗さ」「深さ」を、「積み荷のない船」を通して考察。江戸時代の戯作の一手法「吹き寄せ」を、「アジアの純真」「ドレミのため息」に見出される。そのように陽水の「歌詞の木立の中を歩きながら」、先生は我々に、いかに陽水が「現代詩のように読める」かを教えてくれました。先生はこう言われます。

 曲から離れて読むことによって初めて意味純粋に言葉として受け止められるようになるからです(と言っても、読者たちは英訳くらいまで距離をとらないと、それは得られないとは思いますが)。(同書 p154−4)

 中でも私が印象に残っている引用作家が二人います。宮沢賢治と三島由紀夫。賢治を嫌う人は、日本人には余りいないでしょうが(なにせ、学校の先生が好んで教材にしそう)、陽水はその聖人ぶりを、愛に満ちたアイロニーで美事に歌い上げる。「ワカンナイ」で。(私も、その「ワカンなさ」に共感!)
 そして、三島ですが、最後に引用させて頂きます。些か長くなりますが、私が最も心打たれ(多分、自分に当てはまるから?)、自戒を込める意味でもーー。


 (三島、自決4ヶ月にサンケイ新聞紙上に寄稿した一文「果たし得ていない約束ーー私の中の二十五年」70年7月7日)
 私の中の二十五年間を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど 「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。(中略)このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのだろう。(以上)

 SNS上に続々と産まれる顔のない言葉の、あくまでも安全地帯からの中傷や悪意。悪さをするのっぺらぼうは、「無機的、からっぽ、ニュートラル、中間色、富裕、抜目がない」という三島の発言と重なる部分があるように思えます。(同書 p45)


 長々と失礼いたしました。冒頭の、福岡在住期、そして、その後のご闘病も胸に迫るものでした。まさに、子規の『病牀六尺』。そこで、陽水の英訳をされた。文学が、詩歌が消えゆく生命に復活を齎した。キャンベル先生、ありがとうございました! 私も「誤字熟語」作家らしく、これから富裕でなく浮遊の人生を和漢なくAME心臓的に生きてMILE所存です。

乱筆お許しを。
POETAQーー。



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【引用文献】

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