「みなみのかぜ」Compilation-1 を読んだ。電子版で100円だったが、値段以上に充実していた。小生には元より批評力などないゆえ、僭越ながら「感想」を書かせて頂く。誤読に満ちているだろうが、アホながらも盛んな妄想力に免じてお許しを。。。
「スクラップ・ブック」 麻田あつき
祖母が骨になった日
おしろい花がひらいたーー
ばあちゃんっ子だった小生である。この一節を目にした瞬間、記憶がまざまざと蘇り、胸が熱くなった。。。
文章は極めて淡白。感傷に流されず、描写に徹しているところ、ヘミングウェイである!(なんで、ここで小説家なんだよ)。しかし、その「努めて哀感を抑さえているところ」が涙をそそる。ラストの「風も/方位も/うしなった煙」に至っては、私なんぞ火葬の日が瞼に浮かんで。。。
随筆ではともすると冗長になりがちで悲哀たらたらとなるが、ドライな韻文になると、却って哀感深まる。煙は生命のごとく永遠なのだ。。。
「羽化」 菊石朋
蜉蝣の羽化。。。
それは、そのものと同時に、詩人、いや、にんげんの「羽化」かな?
とりわけ「巣篭もり」の現代で人々は何とか外に出たがっている。私のような「インドア派」にとってはパラダイスなのだが、それでも空気は欲する。それが「野生の道」に「帰ろうか」となるわけだ。
ITデバイスを身に纏った現代人も所詮、動物である。そこへ、すっかりPCと蜜月関係が長いこと続いて足腰もモヤシになっているゆえ、「蜉蝣」の如く落りる。ああ、「白い蜉蝣」よ! 文明と人間ーーを考えさせられた。
「五月の風」 清水らくは
カーゴパンツは飛んだ
飛びたかったから飛んだーー
冒頭の一節に、私はガルシア・マルケスの『百年の孤独』を思い出した。長い長い怪奇幻想譚(いわゆる、「グロテスク・リアリズム」)だが、その一挿話に、洗濯物と一緒に空へ舞い上がるシーンがある(誰だったか失念)。マルケスの文体はヘミングウェイに似てハードボイルド。まるで三面記事のごとく短いセンテンスでテンポよく活写されるから、嘘っぱちもホントに読めてしまう。だから、怪奇なリアリズムなわけだが、「五月」はそんな「不可思議な浮游感」に満ちている。
とはいえ、それは決して「甘ったるい童話」などではない。実は、前掲の「羽化」に通じる「存在論」だったりする。着地前は「美しい」。が、実際に着地(誕生)してみると、人生は言わずもがなだが、地獄である。しかし、詩人(カーゴパンツ)は「全てを受け入れようと思った」のだ。
このコペルニクス的転回!!!
まさに「魔」を「魔」と捉えるとその姿が消えるかの如き勇断に、小生は涙を禁じ得ない。寓話の本領ーー「詩」の使命は決して小さくはないのである!
【追記】清水氏には、かつて「福岡ポエトリー」にて朗読作品のコピーを頂いたことがある。その際、「哲学講師をされている」とご紹介を賜った。老毒人には、ただただ畏敬である。。。
「心魚」 津留清美
心魚を漁るに、その餌は慾であったり、色であったりするーー。
「阿漕」という謡曲(お能)がある。恋の執心が死後にも続いて、八熱八寒地獄にのたうち回る魂の叫びが悲痛甚だしい話だが、この「心魚」は、そんな純然たるものではない。
「心海」(深海?)に棲み、それを釣り上げようと試みるも容易に叶わぬ実に憎たらしい存在。これは、小生の「何度も口にしたいし耳にもしたい」くらい鳥肌が立つ大大大好きな聖句「自分さがし」ーーの「自分」のようなもので、あたかも「みっけもの」「お宝」のごとく想像した。思うに、「心魚」を実際に釣り上げるときというのは、「今際の際」なのではないか。我々は「おぎゃあ!」と産声を上げた瞬間、その口から「心魚」は黄泉の海へと飛び去り、「人生」とはその飛び去った魚を求めてさまようイバラの旅路であって、芭蕉のごとく旅を終える時に、その飛び去った心魚が「あっぱ」と脱魂させた口へ入れ替わりに入り込んで・・・。
いけない。つい妄想に耽ってしまった。しかし、この散文詩は、このように読み手の想像を喚起させる魔力を持っている、ちょっと恐ろしいが諧謔に満ちた楽しい一篇である。(故・粒来哲蔵の散文詩ファンだっただけに、その思いはヒトシオなのだ!)
「九品寺」 平川綾真智
穀雨で膨らむ雲濁の姿が暦に残らず切り、落とされ
。塗り乾かしていく空は薄いーー
のっけから、これである。この変拍子ーーこれこそ、一筋縄ではいかぬ大兄の面目躍如たるスタイルなのだ! これ、意外と病みつきになる。とりわけ、小生のごとき「ヘソ曲り」には。。。
さて、上記の如く句読点が意外な箇所で散見されるのだが、私はこれを「息切れ」と(勝手に)読む。つまり、「手淫」という言葉が二度出てくるところから邪推するに、何やらヤラシイ行為が瞼に浮かぶのだ。その最中の「はっは」(吐息)?。。。
いやいや、待て。一文スペースもそこここに現れるので、ここにも何か読み足さねばならない。「米粒写経」とは芸人ユニットの名だが、タイトルや「梵字」という言葉から、寺らしい。。。
そして、実際にそれが寺で、こうした淫靡な行為がそこでなされているとすれば、それはそれで背徳の悦びでもある(現に「悦」という字が出てくる)。
ああ、大兄よ! 私の読解力ではこの辺りが限界なようだ。ただ、こうした形式からして、大兄の「アンチ精神」ーー敢えて「逸脱」に徹することで体勢だったり旧態依然の価値観だったり道徳だったり微温的日常だったりに喝!ーーは、その穏やかな物腰とは裏腹に先鋭的かつ熱烈という点で、ヘソ曲りは大いに共感する。その混沌たる、しかしながら妖艶なる晦渋は、抽象度から言ってピカソというより、むしろカンディンスキーか。凡愚な小生は、それゆえ、マッチを別名「現代詩のカンさま」と心で称したい。
これ、実際に声に出してみると、面白いかも知れない。詩人は実際に朗読も達者であられる。デビューの「水駅」を頂点に無惨なまでに転落した印象の天才読書人・荒川洋治氏は朗読をクソのように貶すが、韻文は元来「読み」が前提だ(取り巻きは犬のごとく尻尾フリフリ反論するだろうが)。このマッチの乱拍子も読みから来ているのでは、と老毒詩人は推察する。すると、その妖しさはいっそう色香を漂わせ(しかも寺の中で)、背徳に匂い立つ。
おお。萌えるぜ、九品寺!
「ダンジョン」 広瀬大志
文学や芸術には魔力がある。
「ダンジョン」を読む直前、なぜかふとTears for Fearsという80年代のユニットのヒット曲「Everybodey wants to rule the world」の歌詞を英語の勉強の一環で改めて読み直したばかりだった。
青臭い時代に意味も分からず聴いていたポップソングの真相は、実に暗くシビアな内容なのだった。それから積読になっていた本誌を開いて目に飛び込んだのが本篇。
「Everybody〜」との見事なリンクは恐ろしいほどだった。
「地下室」と訳される本詩は、魂の行く末を促す「顔」なるものが目前に迫り、遂には腕まで掴まれ詰問される。その恐怖は圧巻ーー。
何だかサルトルの「アンガージュマン」を彷彿させる哲学。そうなのだ。天才が「地獄」と称したごとく「人生」は実に恐怖に満ちている。まさに「ダンジョン」だ。しかも、逃げられぬ。。。
う〜ん。ブラックで重厚な階段(怪談?)だった。
「世界よ、あれ」 宮城ま咲
「ただでさえ自己評価は低い」詩人が、生まれたての子猫のために「世界よ、あれ」と哀訴するーー。
いやぁ、なんとも切なく、しかし判らぬでもないこのメランコリー!
政府にも地球にも、更には自己にも絶望し切っている詩人の唯一の救い。打ちひしがれ、奈落に息絶え絶えと存在するより術のない者の哀願。小さきものと間近に接すれば誰しもが涙ながらに抱いてしまう憐憫。。。
「絶望名言」という書があるが、これこそその一書に相応しい。下手に励まされるより、百万倍癒され、逆に生きたくなってくる。
そうなのだ。厚顔不敵な輩をタダで笑わせてはならぬ!
誤読とてイって仕舞えばお買いドク
コメント
コメントを投稿