発表日から既に4日
ようやく動画が出来た。
サイトの説明欄にも書いたが
当日、出演者紹介時に読んだ詩である。
昼休み中にバタバタと公園でメモしたのだ。
短いものだが
読み終え期せずして歓声が上がった。
救われた気がした。
三日間でなんとか完成。
その奇跡を作った一同への労いとも取れた。
完成音源を来客と共有したばかりだけに
達成感と歓びで胸は熱くなっていた。
参加してよかった、と改めて感じた。
聴く前はどんなものだろう、と些か落ち着かなかった。
ただ
音声担当の「ほたか」氏は音響専門家であるし
演技指導の五味氏はその包容力と技量で
わずか三日という短日月で
我々を見事なまでに役者へ引き上げてくれたゆえ
逃げ出したくなるような不安に駆られることはなかった。
ともかく、ここまで来て
三本のマイクと格闘してきた精華が如何なるものか
我が耳で確かめずして帰るわけにいかなった。
さて
流山児祥演出の
熱気に卒倒しそうなコラージュ劇が終わり
ステージには一台のスピーカー。
ああ、あれで流すのか、、、と少々不安に。
録音時は
右手、左手、中央、奥ーーと
声で奥行きを表現するよう演じてきた。
果たして一台でも充分に表現し得るのか、と。。。
やがて開演の説明があり
すぐに暗転。
私のタイトル・コールが恥ずかしながら流れ
劇は始まった。
音声のみ、だから当然、役者は現れない。
暗闇のママである。
が、
ト書きに従い響いてくる声は
確かに指示通りの方向からだった。
それらが右に、左に、奥に、と移動する。
いやあ、
これは偏絵に編集の力、と感嘆した。
録音当日は余りの小ささに録れているのか心配だった
少年の囁きも
しっかりとパンしながら聞こえてくる。
それも
レベルを上げた時に必ず入るノイズなし、なのだ。
さすが、音響専門、と脱帽したのだった。
それからは大船に乗った気分だった。
通常の芝居のように
舞台に立つわけではないし
顔も分からないから「デカいツラ」なのだ。
が、
終演後は挨拶に立たねばならない。
一人ずつコメントもお願いされていた。
私は挨拶代わりに走り書きした詩を片手に
全てが恙無く終わることを祈っていた。
この長い題名の戯曲は
唐十郎のデビュー作、とのこと。
1964年初演、というから
東京五輪の年である。
老人、母子、浮浪者といった
いわば社会的弱者が
役所が勧める「塔」に向かって歩き、登る。
しかし
そのテッペンからいつも笑い声が落下している。
それでも人々は、「塔」を目指すことをやめない。
ひとりの男などは登攀中
狂ったように歓呼しながら階段を数え登る。
そこから一旦は落ちたらしい少年を背負って
歌詞を忘れたカナリアの歌を
子守唄代わりに虚しく歌い続ける。
役人は相変わらずの営業トークで「塔」を宣伝。
その皮肉と諧謔は
発表されて半世紀を経ても
痛烈に耳と胸を突く。
唐はデビュー時から天才だったのだ!
そんなことを思いながら聴いているうちに
終演となった。
我々は舞台へ呼ばれた。
講師が挨拶ののち、我々を紹介。
私は講師とは反対側。
キャストが名前と役名だけ言ってマイクを隣りに手渡す。
ああ、
挨拶っていうのはこのことか、と
詩作が無駄だった落胆と
それを読まずに済む安堵を噛み締め
私も役と芸名だけを言ってマイクを司会に返す。
すると、だ。
講師が私に代表して感想を求めてきたのである。
私は夢中で朗唱した。
多分、片手に紙片を持っていたので
慈悲深き講師の目がそれを捉えたのだろう。
五味氏に感謝である。
そして、
今回の共演者、スタッフにも。
また、
なんだかPRのようになってしまった朗唱に
拍手を贈って下さった唐ファンの皆様にも。
怒涛のごとき三日間だった。
それは夢のようなひとときとも言えた。
録音後の空き日(土)と
発表後は丸一日ぐったりだったが
生きている実感に浸れた。
私は読んだ。
「塔は遠くにあるでなく
我ら自身が塔なのです」ーー
行動なのだ。
そこにしか
幸福も
充実も
宝石(たから)も
いのちも
ない。
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