以下は、生物学者・本川達雄東京工大名誉教授の話「島の規則」(2019年6月11日 NHK「ラジオ深夜便」「歌う生物学」)を基に、筆者個人の見解を交えつつ論じた。
私論『われわれはWWW人?』
かつては1万年前に絶滅したと言われていたマンモス。ところが、シベリア沖の島ウランゲリで発見されたそれは、4000年前のものだったことが判明。しかも体長は子牛程度。これは、孤島に隔離されると巨大生物(捕食者)の餌となる小型動物の食物ーー草の面積が狭まる。よって、小型動物の個体数が減る。大型動物は大量に小型動物を捕食出来ぬゆえ、少ない栄養で凌げる体にまで小型化する。それに伴い、元来の小型動物は捕食者から身を守れるよう、彼らと同等の体付きになる。つまり、閉じられた世界に於いては、生物はいずれの種も平均化するのである。
人間も、動物の一種ゆえ、例外ではない。とりわけ、周囲を海に囲まれた島国ではそれが顕著である。その国は古来からの美称が象徴するように稲穂が波打つ麗しき水田国家。まさに植物を主食としてきた。生物学が説く「島の規則」を絵に描いたような風景。そこに住む人々は、さほど身長が高いわけでも太っているわけでもない。もちろん、統計学に則った例外は何処にも存在するが、概して平均的である。
そうした身体特徴は精神世界にももちろん及んでいて、人々は枠から逸れるのを異常なまでに恐れる。枠外は巫女かカブキ者のごとく敬遠される。海外がしばしば驚嘆する「行列」は、まさに「出る杭」を嫌うこの国の特徴と言える。「みんな」に弱い。その弱さが「入社式」といった、男女全てがダーク・スーツといった均一化へのモチベーションとなっている。そこに疑問の余地などない。戦後は終わっていないのだ。
そうした遠くイザナギ・イザナミ以来のDNAは、たとえ村上春樹気取りに朝からパスタを食したところで、また、「樹里亜(ジュリア)」だの「富増(トーマス)」だのといった欧米風の命名を小洒落て試みたところで変異は容易でなかろう。ゲノム編集で、ある程度可能かも知れないが、ふと夢といった無意識の領域から記憶が湧くようなこともないではない。そうなのだ。きょう、あの角を右に曲がる、だの、セブンでなくローソン、だの、一見、意思で決めているような選択は往々にして意識下の司令だったりするーー「見るもの・すること」は氷山の一角に過ぎぬのである。
話を戻す。世界がWWWによって結ばれ、否が応でもグローバル化を強いられ続けて久しい今日、上記のごとく長い間、稲を主食としてきたこの国の民は、とりわけ欧米化の波に晒され相当な船酔いを呈している観である。国内で認められなかったのが、海外で認められ、手のひらを返すようにへえこらしだすといった卑屈さ。それが良い方向に向かったのが高度成長であり、悪しき道を取ったのが戦争であった。鎌倉時代の「神風」を信じてのーー。
が、信(芯)を置くべきは、独自性である。と言っても「自閉」ではなく、「分を知る」ということだ。我々は稲を食してきた。稲は植物でありWWWである。腸も食物繊維を消化出来るよう、欧米人より長いらしい。DNAの為せる業である。そんなわれわれを教授は「なんとなくチマチマと生きている」と自嘲するものの、しかし、それこそ「限られた資源の中で存続しゆくための術」であり、今や資源の枯渇と環境破壊が急速に進行中の地球全体を「島」と見るとき、チマチマと平均的に生きるわれわれWWWの民の智慧こそ、逆に、人類の求めるところと結論する。「大きくて強いものは絶命する」との警告を忘れず。
〽️小さなものも、大きなものも程々になる
程々のしあわせ 島の暮らしーー
このゆるい歌声を聴きながら、われわれも人生という旅の草枕に、ブルーライトでピリピリと微電化した頭を静かに沈めようではないか。
6月10日(月)23時台「ラジオ深夜便 歌う生物学 本川達雄教授」 (18日 午後6時まで試聴可)
コメント
コメントを投稿