スキャンとかの最中は
文章が打てないので
朗読を聴いている
途中だった川端の『雪国』
そこに
芸者・駒子が島村にプライベートを明かすシーンがある
ちと長いが引用ーー
島村が眺め直していると、女は炬燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終らない。
「なにを勘定してるんだ。」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
「五月の二十三日ね。」
「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよな。」
「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ。」
「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね。」
「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
「日記? 日記をつけてるの?」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥ずかしいわ。」
「いつから。」
「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳にね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったとみえて、線が綺麗に揃ってるんですの。そうして帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっしり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻紙へじかでしょう。」
「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」
「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ」(略)ーー
その清貧さたるや、数日前のサヘル・ローズのラジオ・インタビューを思い出した。
「明日へのことば」サヘル・ローズ 5日午後6時まで視聴可
まあ、現在ではスマホにメモするか、ツイートするかが主流で、肉筆はレアではなかろうか。それにしても、十六から毎日である。しかも、この後、駒子は、読んだ小説についてもメモしていると言い、物書きの島村を感動させる。そのくだりをーー。
彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのだろであろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。
しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きとした血色だったたーー。
(引用文献 『川端康成集 新潮日本文学 15』より)
おう。この川端自身と取れる虚無的な中年文士とは裏腹に、この無垢な娘は、しかし、物語の終わりで悲劇的結末を迎えることに。。。
天下のNHKである。著作権をちゃんとクリアしたのだろうこの名作を最後まで「聴き逃しサービス」で無料視聴出来る。が、世の中そんなに甘くなく、期限付き。しかも、1回15分間、計24回に分割されていて、第一回は明日6月4日の午後3時まで。その後は期限が順次一日延びになり、最終回の第二十四回は7月5日午後3時までである。一挙には大変だから、ちょっとずつならこちらのほうがいいのかも知れない。→
NHK「朗読」 聴き逃し 一覧
さて、物語中の駒子は二十歳前後だから、かれこれ四・五年は日記をつけていることになる。実在モデルがいたようだから、真偽のほどは定かでないにしろ、文豪の手にかかると、どうも本当らしく読めてしまう。いや。そういう人はいたはずだ。折りしも、今朝、Web記事でインタビューを読んだ。AV女優の作家さんを。考え、戦っている尊き存在をーー。
創造者に私は憧憬と畏敬の念を抱く。私もそうありたいと切望する。切望するばかりで、相変わらず財布はKara。が、逆にそれがモチベーションとなっている面もある。 Haruki Murakamiに間違ってもなれないが、なったとしたら、私はそれこそ日がな一日テレビ漬けになるかも知れない。「ぼーっと生きてんじゃねぇよ」になるかも知れない。凡庸で偉大な万年雇われ人の末裔なのだから。。。
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