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【12月8日に寄せて その2】中原中也「サーカス」(昭和九年) ー茶色い戦争ありました。。。 [On December 8th—Pearl Harbor Day] Nakahara Chūya’s Circus (1934): “There Was a Brown War…”

  「ゆあーん、ゆよーん」  天才詩人の残した不朽のオノマトペである。しかし、その何とも童話チックな響きとは裏腹に、その詩「サーカス」は、「戦争」というものの本質−−冷酷さ、嘘くささ、滑稽さ等々−−が、小学生でも分かる言葉で綴られている。「サーカス」は、それに踊らされている大衆なのか、当局なのか。。。この詩を収めた詩集『山羊の歌』は昭和九年が発刊年。青空文庫によると、12月10日というから、ほぼ91年前の冬だ。今の世界はどうなのか。暗い気持ちと向き合いつつ動画を作った。 “Yuaaan, yuyooon.” This is the immortal onomatopoeia left to us by a genius poet. For all its fairy-tale charm, the poem Circus in which it appears speaks of the essence of war—its cold cruelty, its falseness, its absurdity—in words that even a child could understand. Is Circus about the masses being made to dance, or about the authorities who pull the strings…? The collection that contains this poem, Goat Songs, was published in 1934. According to Aozora Bunko, the date was December 10th—so it was the winter almost ninety-one years ago. And what about the world now? I made this video while facing that darkness within myself.

朝ウォーカーの5つのタイプ



加齢と緑内障の進行で
めっきり眩しさがつらくなって久しい
「ああ、よく寝た」とカーテンを開け
部屋の電灯をつけるというのは
常人にとってごくごく普通の営みだが
眼病者にはそれが仇となる
急な光を浴びた目は
どうかすると二、三日疼いて
読書はもちろん、PCもスマホも見られなくなる
頭痛でなにも出来なくなるのだ
それで
四、五年前から日の出前の薄明のもと
光順応のために朝散歩をするようになった
それが嫌で嫌でたまらない

仕事のためには已を得ず続けている
きょうはその嫌で嫌でたまらぬ散歩がらみの論考をーー。

今の時季、日の出が早いから5時前に出るが
往往にして、同じ時刻・同じ地点でスレ違う人がいる
そのたび、人間嫌いの私は眉を顰める
声を掛けられたくないものだから
(別に咎め立てされるような疚しいことはしていないが)
ラジオのヘッドホンを
敢えて両手で押さえてリスニングに集中している振りをする
それでも、夫婦だったり、時にはマラソン・ランナーまで
「おはようございます!」と
いかにも爽やかな声で挨拶してくる
実に鬱陶しい!
私はそのたびそっぽを向き心に訴える

「あなた(たち)、こうしてスレ違うたびに
誰彼構わず挨拶するなら
昼も夜も
街中でもショッピング・センターでも
スレ違う人間全てに挨拶しろ!」とーー
彼らは大きな誤解をしているらしい
朝散歩の人間が全て、自分らと同様に元気溌剌なのだ、と
そこで
この四、五年の観察を通して
朝散歩者に以下のタイプが存在することを知った

①挨拶強制タイプ

やたら元気で、挨拶したら挨拶を返すまで、さながら勝負のごとく毎回挨拶を押し付けばましく発してくる。(やめて欲しい)

②時間ぴったりタイプ

さながらカント先生のごとく、決まった時刻、決まった地点でスレ違う。①と並存することが多い。(この規則正しさにもイライラさせられる)

③うつむきタイプ

お互い視線も挨拶も交さずスレ違うから気ラクである。(ただ、存在は知られているようだから、余りいい気持ちはしない)


④ガン付けタイプ

じ〜っとこちらを睨んでくる。スレ違い後も、わざわざ振り向いてまで睨み続ける。

⑤リハビリ・タイプ

私である。心臓も弱っているから、お能の稽古のつもりで摺り足で歩くこともある。

最近とみに衰えを感じるようになったせいか、もはや「元気」を被る体力・気力を失っている。「希望」を持つことも然りだ。今や、尾崎一雄ではないが、畳に這いずるダニを愛でるような老境である。いや。そこまで行っているなら、ブログだのツイッターだの書きはしない。まだ野心の熾が燻っている。それが、また、苦しみを煽るのだ。妄想屋にとって、この世は地獄より地獄である。




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