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【12月8日(真珠湾攻撃の日)に寄せて】「ハル・ノート」を朗誦。連合艦隊出航とほぼ同時が怪しげ。【Hull Note (1941)】Trigger for the U.S.–Japan War? ~Jazz Recitation

 84年前の話。  1941年12月8日が真珠湾攻撃の日というのは、小学校から教わっていたが、零戦部隊を載せた連合艦隊がその10日以上前の11月26日(本日は、2025年11月28日)に択捉島・ヒトカップ湾を出航していたのを知ったのは、恥ずかしながら、つい最近のことである。加えて、その全行程が米軍の傍受によって筒抜けだった、ということも。  開戦のきっかけと言われている「ハル・ノート」を受け取ったのも同日26日(アメリカ時間)。しかし、その点も、なんだか怪しい。ただ、確かなことは、戦火に巻き込まれるのは決まってヒトカップの真実も知らぬまま一生を終える庶民(私)である。祖父の弟は戦死し、祖父だけが生き残り、平成まで生きた。戦後80年も終わろうとしている。100年の景色はどうなっていようか。。。 ハル・ノート(Wikipedia) ハル・ノート/合衆国及日本国間協定ノ基礎概略 84 years ago. I’d been taught since grade school that December 8, 1941 was the day of the attack on Pearl Harbor. But it was only very recently—embarrassingly recently—that I learned the carrier task force carrying the Zero squadrons had already set sail more than ten days earlier, leaving Hitokappu Bay on Etorofu Island on November 26. (Today is November 28, 2025.) On top of that, I also learned that the entire voyage was in fact laid bare to the Americans through their signal intercepts. The so-called “Hull Note,” often described as the trigger for the war, was received that same day, the 26th ...

炭坑資料館の思い出 〜ドキュメント「作兵衛さんと日本を掘る」(5月25日公開)に寄せて

ボタ山の夜明け
明日、5月25日から公開のドキュメント映画(熊谷博子監督)に因んで、福岡県田川市の炭坑資料館を訪ねた日とその時期について綴る。

もう二十年前の話だ。隣町の福祉事務所に臨時職として就職した。職員は4人。私は町内に配る月報の執筆を仰せつかった。もとより、コミュニケーション力欠如の私である。黙々と取材先に連絡を取り、車で田園地帯を走り回っては戻ってワープロでまとめる。折しも時代は新発売のWindowsを求めてアキバに人が並んだ頃。まだパソコンに触ったことのなかった私は、「99年問題」を話題にする三人の古参職員を尻目にカチカチと慣れぬキーを打っていた。

土日も催事があれば取材に出た。時間外労働である。給料を請求することも出来たのだろうが、そういう雰囲気ではなかった。町外人が馴染める職場ではなかった。田舎の小さな事務室は、隣町の、仲間に入ろうとしない堅物にとっては棺桶のように窒息しそうだった。

年上の女性職員が冷ややかっただった。時折り仕事の誤りを指摘するが、実に嫌味な口調だった。それに倣うように私より年下の女性職員も私に一言も声をかけない。目も合わせない。それはそうだ。町報の紐も締め方も知らぬ余所者と誰が親しみなど覚えよう。唯一、私と同じ男性の事務長さえ、そのうち冷淡になった。次の仕事を求めても、「ない」ときっぱり言われた。私は手持ち無沙汰で、次の月報の予習をして時間を過ごした。

辞めたかった。そして、悟った。なぜ、私の席だけがいつも入れ替わり立ち替わりになるのか、を。もともと、私が就職したのは、福祉関係の求職登録をしていたからだった。そこから事務職の話が来て、応じたのだった。そして、古参の三人は町内人で、そうして新たにやってくるルーキーに試練を与える。無視し、冷遇して試す。そのイニシエーションを乗り越えた者だけが仲間として認められる。小さな町の、意地悪な楽しみなのである。

その年末、私は初めて出した短編が新聞に連載となり、それを見た演出家から舞台にしたいとの話なども舞い込んで、そこを辞めることになる。所長にその辞意を伝えると、「学生バイトでもあるまいし」と皮肉られた。それもそのはず、入って三ヶ月も経っていない。他の女性職も依然として冷たかった。その究極が、私が退職する日に投げたれた一言である。

「あなた、ここに来て二日目から居眠りしてたでしょ」ーー。

言われてみれば、思い当たる節がないでもない。所長から読めと手渡されていた福祉関連文書は味も素っ気もなく、ついつい午後の暖かな日差しにこくりこくりやっていたのかも知れない。それを斜め前から、女医になるでも、アナウンサーになるでも、女優になるでも、作家になるでもなさそうな雪女のごとき美女は、恨みがましく睨んでいたらしいのだ。そして、そのことを、私が取材で席を開けている間、残った三人で共有していた。道理で、みんな、冷たいわけだ。まさに「他人の地獄」である。(今、そう書いて、「他」と「地」の形が似ているのに気づく)

さて、冒頭に戻る。私は時々、そんな職場がつらくて、息抜きに出ることがあった。炭坑資料館もその一つだ。確か、一日、事務所を「病欠」と偽り訪ねたのである。駅に原付を止め、電車でかつて見学に行った記憶のある地味な資料館に入った。まだ、作兵衛絵画が記憶遺産に登録される遥か以前である。平日の雪模様に、今や教科書の片隅に追いやられたような炭坑物語を見物に来る物好きなどいない。がらんといた館内を独り、靴音を響かせ歩いた。闇の坑道を半裸の夫婦が前屈みに採掘する姿が目に焼き付いた。「ああ、アキバはパソコンで溢れかえっているが、それも、こうした墨まみれのご先祖のお陰でか」と感慨を深めた。

小雪になり、電車で地元駅に戻ると、バイクがない! 交番に届け出に行きながら、仕事をサボったことがバレるのでは、とひやひやものだった。バイクは別の駅で乗り捨てられていたのが分かったが、私がサボったことはバレなかった。それは不幸中の幸でもあり、不幸でもあった。いっそ、バレれば、早く退職出来たかも知れないのに。

山本作兵衛は少年時代から坑夫として働いた。私からすれば気の遠くなりそうな長き歳月の記憶を、絵と文章に残し、それが日本で最初の「ユネスコ記憶遺産」に認定された。流行語大賞が「オプジーボ」より「ぼーっと生きてんじゃねえよ」に与えられる素晴らしきIT大国にあって、炭坑遺産などほとんど見向きもされないが、輝きの底、社会の根底を浮き彫りにする熊谷博子監督が8年がかりで製作したドキュメントが公開される。作兵衛翁は60過ぎて2000以上の絵を描いた。テレビ漬けでいたければいれるが、描きに描きまくった。それが生きることだった。スタンダールの墓碑銘を思い出した。

生きた、書いた、恋したーー

善も悪も艶も美しい炭坑美を、モグラも堪能してみたい。

監督・熊谷博子インタビューが24日(金)午後6時まで聴き逃しで聴ける(って、今日までじゃん!)
NHK「ラジオ深夜便」明日へのことば 24日(金)午後6時まで

映画「作兵衛さんと日本を掘る」公式サイト
「作兵衛さんと日本を掘る」




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