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Dance Remix “The Ballad of Persse O’Reilly” be selected for "Bloomsday Film Festival"! ダンス・リミックス「パース・オライリーのバラード」がブルームズデイ・フィルム・フェスティバルに入選!

A film I created to celebrate the 143rd birthday of James Joyce has been officially selected. I like to think the genius himself is dancing in heaven🕺  Dance Remix “The Ballad of Persse O’Reilly” Lyrics by James Joyce (from “Finnegans Wake”) Read & Music by POETAQ Have you heard of one Humpty Dumpty How he fell with a roll and a rumble And curled up like Lord Olofa Crumple By the butt of the Magazine Wall Of the Magazine Wall Hump, helmet and all? He was one time our King of the Castle Now he’s kicked about like a rotten old parsnip And from Green street he’ll be sent by order of His Worship  To the penal jail of Mountjoy To the jail of Mountjoy! Jail him and joy He was fafafather of all schemes for to bother us Slow coaches and immaculate contraceptives for the populace Mare’s milk for the sick, seven dry Sundays a week Openair love and religion’s reform And religious reform Hideous in form Arrah, why, says you, couldn’t he manage it? I’ll go bail, my fine dairyman darling Li...

傘がなけりゃ、濡れて帰りなさい!(「傘の日」に寄せて)



「傘がないなら、濡れて帰りんしゃい!」
それが夕立で雨宿りしていた中二の僕に
原付で傘を届けに現れた母の怒号だった
給食調理の仕事を終え
自らもカッパで濡れ帰っていた
まだ30代の男勝りは
甘ったれの長子の足元に傘を放って去った
歩くと二十分はかかるから
傘無しではズブ濡れである
それをカバン片手に帰れというのは些か酷だが
その頃には雨脚も緩んでいて
カバンを笠代わりに歩けなくもなかった
無ければ無いなりに臨機応変な対応をすればいい
それを
内申書ばかり気にする臆病な点取り虫は
母親を侍従ででもあるように電話で呼びつけたのである
ロクでも無い息子だった。。。

先月、日本古典が専門のロバート・キャンベル東大名誉教授が
井上陽水の歌詞50篇を英訳出版して話題を呼んでいる
(『井上陽水英訳詞集』講談社)

陽水の歌の世界は、改めて字面を読むと
ちょっと訳が分からない、と作家・藤野可織も
ラジオで言っていた、と記憶する
それは彼女だけに限らず、当の翻訳者・キャンベル教授も
相当難儀だったらしい
とりわけ
名曲『傘がない』は一筋縄ではなかったようで
唯一、陽水自身が重要なフレーズを訳したとのこと
(その辺り、こちらに詳しい→名曲『傘がない』を英訳するとどうなる?村上隆則

『傘がない』発表年は1972年。既に学生運動の熱は冷め、時代はシラケ・ムード。そんな季節に、ひと頃はヘルメットにゲバ棒をふるって体制批判していたのが、いざ卒業となると、しれっと大企業なんぞに入社してる。「傘の下」に入っちゃってる。皮肉とも取れるこのシニカルな歌は当時大ヒットはしなかったものの、その後の音楽家たちに数多カバーされるほどの不朽と名高い。リアルタイムの世代ではない小生も、そのインパクトある歌詞は幾つになっても胸を突く。なにせ、自殺者が増えようと傘がないほうが問題、なんて言うのだから。でも、これって、隣りで今にも死にそうなほど息切れしてるのに、スマホに夢中ーーの現代にも通じる気がするのだが。。。

種明かしになるが、前述の記事で陽水は「傘」を特定の人間の所有物としなかった。あらゆる人々の物だ、と。歌はそうしたあらゆる人々に必要なものが「ない」。そう訳すべき、と自ら訂正したそうなのだ。

これって、現代のことじゃない? 
そう考えると、キャンベル先生の訳業の現代的価値は大きくない?

陽水歌は訳が分からん、などと利いた風なことを言ってしまったが、そんなことはない。年齢やキャリアから言って、シナトラ張りに争いもまつりごともない甘ったるいラブソングをディナーショーなんぞで歌ったところで文句が出るようなこともないステータスではある。が、それをよしとせず、相変わらず不条理を時には皮肉に、時には慈しみを以ってギターを抱え歌う九州男児の大先輩を私は大いに敬愛する。「傘がないなら、濡れて帰れ」と怒鳴った、今なお口も達者な老母とともにーー。







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