買いているとき、何か創っているときが、苦しんのだけど、「生きている」との実感がする。
逆に、何も書いてないとき、何も生み出してないときというのは、楽なようで、つらい。鬱々、苛々してしまう。。。
作家・小野正嗣の「歓待する文学」最終回。テキストは、開講前に書かれたものだから、その最終回、読者からのハガキに答える形での内容は、テキストに記載がないものが多い。その重要な部分、心に残った部分をご紹介ーー。
「つらいとき、苦しいときに本を読む、あるいは言葉を綴る、文章を書く。そのときに、皆さんは生の側に踏みとどまっていると思う」
「困難に遭ったとき、本を読む、言葉を書くというのは救いを求めているんだと思う。他者に呼びかけている。そこにはまだ、人間を信じる気持ちがあると思う」
彼はその前に、『変身』で有名なカフカも愛読していたというスイスの散文家ローヴェルト・バルザーについて、それを評したベンヤミンの言葉を通して教えてくれた。
「ペンを手に取るや否や、彼(ヴァルザー)は自暴自棄のとりこになる。彼にはすべてが失われてしまったように思われる。そこで言葉の洪水が堰を切って流れ出すのだが、そのどの文章も、その前の文章を忘れさせるという役目しか持っていないののだ」(『ベンヤミン・コレクション2』ちくま学芸文庫)
ヴァルザーは、どうやら、晩年は精神療養所で過ごしたらしい。そんな半生の彼にとっても、やはり「書くこと」が生に踏みとどまる道だったのかも、と早速、ヴァルザーの傑作と言われる散文小説「散歩」を読み始めた。(『ローベルト・ヴァルザー作品集 4』鳥影社)
とにかく、主人公(彼)が街に出て色んな人物に出くわすのだが、これといた筋があるわけでもないのに、妙に先が気になってしまう。先のカフカやヘルマン・ヘッセを始め、名だたる作家に影響を与えたらしい不遇の文豪の言葉は、しかし、場所も時代も離れた島国の、こちらもジリ貧詩人(と自分で言ってどうする!)の胸に確実に響いている。これ、まさに小野正嗣がいったとおりだ。
「書くということは、同時代に生きる人たちに向けてだけではなく、既に亡くなってしまった人たち、そして、これから生まれてくるという意味で、まだ存在していない人たちに向けられた行為でもあると思う」ーー。
詩(まがい)を書き、小説を書き、ときどき朗読する。それで「生」に踏みとどまっている。振り返ってみれば、それだけが一番長く続けられている。
ヘルダーリン、カフカの横にヴァルザーも加わって、私の書棚はヤバい天才たちで春たけなわなのだ!
(制作中の朗読画像)
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